なんかここんとこ色々あって(心の中で)
はっと気づいたんだけど。
自我とエゴって違くね?!
スピ系では、自我は捨てるもの。いらないもの。あなたの人生を邪魔しているもの扱いされてきるよね。
あれっ?て。
そもそも、悩んだり苦しんだり悲しんだり怒ったりしている、その感情はなぜ出てきているのかと。
どこからきているのかと。
これって
自我を否定してるから起こる感情なんじゃないの?!
自我=自己=個 じゃない?
私たちは、その「個性」を生まれながらに持ってきていて、でも成長していく過程で、親や周りの大人たちから教育されていくわけですよ。
個性を殺しなさい、と。
自我を殺しなさい、と。
怒ったり泣いたりしているのは、殺されようとしている自我なんじゃない?
自己否定はアカーン。てのは、よく聞くし、まさにそう。
ありのままのあなたでいいんだよ。ってのも、本来はそう。
でも、そもそも「ありのままの自分」「本来の自分」て
ナニ!?
ってずっと疑問だった。
最近、すごくよく見るワード
「人それぞれ」
そう。本来の自分ていうのは、その人なりに違うのだ。
みんな違くてみんないい。の意味理解。
でも資本主義社会において、人間関係において、特に日本は「他の人と違う自分は排他」「みんなと同じにならなくてはいけない」教育がされていると思う。
で、気づいた。
あー私、とっくに本来の自分に戻ってるわって。
もともと、私は社交的で優しくて思いやりがあって善良な子供だったのだ(褒めすぎ さすがに笑うwいうとけいうとけ)
でも、私の自我は親の教育によって殺され(親の持っていたエゴによる教育)内向的で人見知りな子供へと変貌していたのだ。
でも、これだと社会生活に適応するにあたって、不便である。
だから私は良い人のふりをした。
社交的で行動的にふるまった。
演じていたから、そのようになった。
と、思っていた。
ちげー。こっちが本来の私だったんだなって。
じゃぁね、でもね、怠けたい自分がいるんですよ。
ゴロゴロしてゲームして映画みて本読んで、寝まくる私。
これも本来の自分なの?
それを望んでいるの?
答えはNOだと思う。本来の私は望んでいない。これがエゴだ。
で、気づいた。
私にとって、神仏に祈りをささげるとは、すなわち戒めなんじゃない!?
自我(個)を肯定し、エゴは戒めていく。
内観から自己観賞へ。
という事で、人それぞれ、「私」なりの見解を浅めに書きなぐってみました。
クレッグや先人が言ってたこと、ここにきて本当に理解できた(気がする)
まぁまだ頭で理解しているだけなので。
でもこれに気づいた瞬間、胃のあたりが重くなったというか、胃のあたりが存在感を主張してきたというか。
「腑に落ちる」とはこの事かな?とは思ったけど。
これから体験していきたいと思いまーす。
行きつく先は「諸行無常」しかないんだろうけどね。
というか、色々と膨大に浮かびすぎていろいろと追い付かない←いまここ